毛利氏、福島氏、浅野氏と城主を変えながら広島藩の拠点となった城
広島城は、1589年に豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元によって築城されました。同時に城下町の建設も進められ、関ヶ原の合戦後、毛利氏に代わって入城した福島正則は、広島城の整備をさらに進め、西国街道を町人…
毛利氏、福島氏、浅野氏と城主を変えながら広島藩の拠点となった城
広島城は、1589年に豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元によって築城されました。同時に城下町の建設も進められ、関ヶ原の合戦後、毛利氏に代わって入城した福島正則は、広島城の整備をさらに進め、西国街道を町人…
戦国武将 毛利元就が居城とした中国地方最大級の山城跡
【国史跡・日本100名城】標高390m 比高190m 東西1.1km 南北0.9km 戦国武将毛利元就が居城とした郡山城は、可愛川えのかわと多治比川たじひがわの合流点の北側に位置し、吉田盆地を見渡す場所に築か…
山頂からは、眼下に美しい海岸線とむき出しの茶色の岩肌、緑の樹林が織りなす造形美が眼下に広がり、晴れた…
山頂からは、眼下に美しい海岸線とむき出しの茶色の岩肌、緑の樹林が織りなす造形美が眼下に広がり、晴れた日には遠く四国の山影までも望めます。山頂付近は遊歩道がありハイキングコースにも適しています。標高は228mです。
全国でもめずらしい城型の水軍資料館
昭和58年、水軍のふるさと因島に築城された、全国でもめずらしい城型の水軍資料館です。 村上水軍は南北朝から室町戦国時代にかけて、この辺りの海路を制覇し、水軍王国として活躍しました。 八幡大菩薩の旗を掲げ、朝鮮…
初代藩主吉川広家によって1608年に作られた三層四階の桃山風南蛮造りの山城で、眼下を流れる錦川を天然…
初代藩主吉川広家によって1608年に作られた三層四階の桃山風南蛮造りの山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山山頂に位置していました。 しかし、築城後8年で一国一城制により取り壊され…
毛利元就の三男小早川隆景は、12歳で竹原小早川の城主となりました。その後、沼田小早川を相続し二つの小…
毛利元就の三男小早川隆景は、12歳で竹原小早川の城主となりました。その後、沼田小早川を相続し二つの小早川氏をまとめました。1年後、副塁としていた沼田川対岸の砦を修築し“新高山城”を築き、約45年間本拠として使いま…
北広島町大朝新庄盆地の南に位置する日野山(標高705m、比高300m)の山頂に築かれた大規模な山城。…
北広島町大朝新庄盆地の南に位置する日野山(標高705m、比高300m)の山頂に築かれた大規模な山城。 1550(天文19)年に吉川元春が入城してから 三男広家が1591(天正19)年に居城を出雲の富田月山城に…
県下最大の前方後円墳をはじめとする3基の古墳からなる古墳群で、国の史跡に指定されています。この前方後…
県下最大の前方後円墳をはじめとする3基の古墳からなる古墳群で、国の史跡に指定されています。この前方後円墳は、出土品や規模などから5世紀前半(412年ごろ)の築造と推定され、その被葬者は安芸の南部を中心とした首長と…
応仁の乱、その激しい戦ぶりから「鬼吉川」と恐れられた吉川(きっかわ)氏の本拠。石見(いわみ)国(島根…
応仁の乱、その激しい戦ぶりから「鬼吉川」と恐れられた吉川(きっかわ)氏の本拠。石見(いわみ)国(島根県西部)に本拠を置いていた吉川経見(つねはる)が、新庄に移し15世紀前半に本城としたとされ、以後1545年に興経…
桜の名所であり、展望台から福富町が見渡せる景勝地です。戦国時代の山城の遺構も見ることができます。
桜の名所であり、展望台から福富町が見渡せる景勝地です。戦国時代の山城の遺構も見ることができます。
標高187メートル、中世の模範的な山城と言われています。周辺には寺跡、居館跡、石風呂跡が残っていたと…
標高187メートル、中世の模範的な山城と言われています。周辺には寺跡、居館跡、石風呂跡が残っていたと伝えられています。頂上の一の郭には城の守護神がまつられ、二の郭には井戸跡があり一の郭の南側に三の郭の遺構が残って…
毛利元就誕生の地とされる城
鈴尾城は、永徳元(1381)年に毛利元就の6代前、毛利元春の5男・広世(ひろよ)が福原の地に移り住み、福原姓と改めたたのち、福原氏の居城となった山城です。 可愛川(えのかわ)に面する丘陵上に築かれており、三…
生口島の中央標高187 mに築かれた生口景守の城。海浜の俵崎城の本城又は見張所的役割を果す。 ―…
生口島の中央標高187 mに築かれた生口景守の城。海浜の俵崎城の本城又は見張所的役割を果す。 ― 「平成21年度版 広島県観光便覧」より ―
向島の南につき出た標高56mの観音崎に築かれた海賊城。因島の幸崎城と共に布刈瀬戸をおさえ備後の海上交…
向島の南につき出た標高56mの観音崎に築かれた海賊城。因島の幸崎城と共に布刈瀬戸をおさえ備後の海上交通の要地で,石垣はほぼ完存し,郭等もよく旧状を保つ。城の東の深い湾は船隠しと言われ城の南側には岩をえぐり東西の湾…
築城の名手・藤堂高虎の代表作で、のちの城づくりの手本になったと評価される名城
三重の堀をめぐらし、強固な舟入(港)を備えた日本最大規模の海城でもありました。現在でも城の中心部の堀と石垣がほぼ完全に遺り、復興された天守や櫓、城門が美しい姿を見せています。建物の内部は博物館になっており、天守最…
永禄10年(1567年)毛利元就の子、小早川隆景が新たな拠点とするため、沼田川河口の大島・小島をつな…
永禄10年(1567年)毛利元就の子、小早川隆景が新たな拠点とするため、沼田川河口の大島・小島をつないで三原城を築きました。海に浮かんでいるように見え、“浮城”とよばれ、日本で最初に海の中から立ち上げた高石垣があ…
大朝盆地の北方、寒曳山の南の低丘陵上に位置する丘城。 1313(正和2)年、吉川経高が駿河国吉川村…
大朝盆地の北方、寒曳山の南の低丘陵上に位置する丘城。 1313(正和2)年、吉川経高が駿河国吉川村(現静岡県清水市)から移り、築城したもの。 小倉山城に本城を移すまでの約70年間、本拠地として居城しました。 …
広島市森林公園内の鷹の条山に、毛利元就時代の山城を再現した展望台が1997年にオープンしました。時代…
広島市森林公園内の鷹の条山に、毛利元就時代の山城を再現した展望台が1997年にオープンしました。時代考証に基づき、高さ10メートルの本丸をはじめ二の丸、三の丸、番小屋、櫓門、冠木門で構成されています。中世の山城の…
広島湾の東岸の標高420mの険阻な山頂に本城をかまえ,南北に細く連なる形の城で,東西は急傾斜をなして…
広島湾の東岸の標高420mの険阻な山頂に本城をかまえ,南北に細く連なる形の城で,東西は急傾斜をなしており,各々数段の郭・石垣を残している。 ― 「平成21年度版 広島県観光便覧」より ―